F11992年総集編

ナイジェル・マンセルは、チャンピオン獲得のために減量を図った。
片山右京がヴェンチュリー・ラルースからF1デビューした。
F1史上4人目の女性ドライバー、ジョバンナ・アマティがブラバムからデビューしたが、マンセルの記録より14秒も遅く、走るシケインと化した。
リアクティブサスペンション、ルノーRS3Cエンジンを擁するウィリアムズFW14Bが、圧倒的な強さを見せる。

  • 第2戦 メキシコGP

ナイジェル・マンセルが圧倒的な速さでポールを獲得。セナは必死に走るが、アタック中にスピンしてしまった。
決勝もウィリアムズのワンツーフィニッシュだった。

  • 第3戦 ブラジルGP

マクラーレンは、ニューマシンと旧型マシン計6台を持ち込んだ。しかし、エンジンにトラブルが出た。セナはシーズン序盤からテレビを使ったホンダへの誘導を始めた。
パトレーゼが1位、マンセルが2位を走っていたが、タイヤ交換でマンセルが1位にたった。

  • 第4戦 スペインGP

マンセルによるFW14Bの解説
2位のパトレーゼがスピンでリタイアし、2位にシューマッハが入る。

テスト中にパトレーゼがタンブレロでクラッシュ。
シューマッハ、リバッツァでスピン。サスペンションを壊しリタイア。
地元のフェラーリは2台ともリタイアに終わった。
マンセルは開幕5連勝を達成した。

マンセル1位、セナ2位で続いていく。
残り8周でマンセルが足回りに異常を感じピットインし、その間にセナが先頭に立った。
マンセルはファステストラップを記録しながら追いかけていき、残り3周でセナにテールトゥーノーズの状態になる。
セナは押さえ込むのが上手だったし、モナコは狭く抜きにくいコースだったため、マンセルはセナを抜くことはできなかった。

  • 第7戦 カナダGP

ジル・ヴィルヌーヴ ヒストリー


1950年1月18日に生まれた。レースに対する考え方はストレート。計算づくの走りなどは無かった。
少年時代からスノーモービルのレースでスピード感を養い、氷の上に投げ出されながらチャンピオンになった。
その才能はレースにも活かされ、フォーミュラ・フォードやフォーミュラ・アトランティックで活躍。
78年、マクラーレンからF1デビュー。翌年、エンツォ・フェラーリの目に留まり、フェラーリに入った。
ヴィルヌーヴは、チャンピオンにはならなかった。チャンピオンという肩書きよりも、1戦1戦の充実感を欲した、真のレーサーであった。
どんなにマシンが非力でも、常に諦めずに突っ走り、勝負を捨てなかった。
退屈とか、平凡という文字をこの世から奪い去り、アグレッシブなドリフト。
しかも、激しいバトルをしていても常にフェアな戦いを挑んだジルのことを、多くのドライバーが知っている。
カナダの人々にとって忘れられないのは、ジルの初優勝が78年のカナダグランプリであったこと。ここから、ヴィルヌーヴ伝説は始まっていった。
1982年、ゾルダーで天に召された英雄。

カニック対抗いかだレース。昨年に続きジョーダンチームが優勝した。


セナが初のポールポジションを獲得し、マンセルが2位で続く。最終コーナーでマンセルが抜きにかかったが、コースアウトしてリタイア。マンセルの話では、セナが追い出したしたらしい。
セナ、電気系トラブルでのエンジンストップ。パトレーゼはギアトラブルでリタイアし、ウィリアムズは初の無得点に終わった。
5位にいた片山右京が4位のヴェンドリンガーに迫っていく。追っていく中でシフトミスし、エンジンブローしてしまった。
優勝したのはベルガーだった。

  • 第8戦 フランスGP

フランスではEC統合によるトラックドライバーと農民のストライキが起こっていた。そのため空路から機材や燃料を運んだ。
スタート直後のアデレード・ヘアピンでシューマッハとセナが接触。セナはリタイアに終わり、シューマッハはフロントノーズを壊した。
パトレーゼが1位、マンセルが2位を行くが、雨が降ってきたことによってレースは中断された。

再スタートの前、セナはシューマッハに小言を言う。
「このままお前の失敗を見過ごしたんじゃ、お前のためにならないだろう」
「だから、直接お前に忠告に来たんだよ。」

再スタート。パトレーゼが1位を行くが、すぐのアデレードヘアピンであっさり抜かれてしまった。後方でシューマッハがモデナと接触し弾き飛ばされた。

ナイジェル・マンセルポールポジション、ファステストラップを獲得し完勝。

  • 第10戦 ドイツGP

ドイツグランプリの1週間前、ホンダのF1撤退のニュースが流れる。

ミハエル・シューマッハ ヒストリー


1969年、ドイツケルン近郊の町に生まれた。8歳のとき父親の勧めでカートを始め、90年ドイツF3のチャンピオンとなる。
父親のルドルフはもともとレンガ職人だった。しかし息子のためにレーシングカート場の支配人となり、ここでミハエルの英才教育に励んだのである。母エリザベスもこのサーキットの食堂で働き一家を支えた。
速い男を、より速くしたのはベンツだった。将来のベンツF1のため彼を養成してきたのである。未だに趣味はレーシングカート。若いが、レースでに何をすべきかしっかり叩き込まれている。
弱冠23歳。しかしシューマッハは、ドイツが誇るF1ドライバー。初めて迎えるホッケンハイムグランプリに挑む。

終盤、マンセルが1位を行き、2位を行くセナをパトレーゼが追いかけるが、セナは必死に押さえ込んでいった。ついにファイナルラップに入ったとき、パトレーゼはセナを抜きにかかったが、コースアウトしてしまった。地元であるシューマッハは、3位となった。

マンセルは2位に入り、マンセルのワールドチャンピオンが決定した。

  • 第12戦 ベルギーGP

ベルガーはフェラーリへの移籍を決める。セナは休養宣言。

途中で雨が降リ始めたが、セナは雨が止むと判断しスリックで走り続けた。しかし晴れることはなくウィリアムズ、ベネトンに抜かれ、セナはタイヤ交換。しかし雨が止み、セナ、シューマッハはいち早くタイヤを替えた。ウィリアムズはタイヤ交換が遅れ、シューマッハを先行させることになってしまった。シューマッハはF1初優勝に輝く。

  • 第13戦 イタリアGP

ホンダのF1撤退が正式に発表される。
来期のウィリアムズシートを争っていたマンセルがF1引退を発表。


ウィリアムズは2台ともトラブルでリタイア。セナが優勝した。

マンセルはインディカーシリーズに参戦を発表。ウィリアムズは来期のドライバーにアラン・プロストを迎えることとなり、セナは選考から外れた。


パトレーゼがピットした時ににリアジャッキが折れてタイムロス。パトレーゼは3位のベルガーを抜きにかかるが、決定打がない。そしてホームストレートにかかったとき、ベルガーはピットに向かう。ベルガーが予告なしにピットに向かったため、パトレーゼはベルガーに接触してしまった。その接触でマシンは宙に舞い上がった。

  • 第15戦 日本GP

セナ、日本のファンへプレゼント。ヘルメットに日本の国旗を貼った。

ホンダ最後の日本GP。セナはエンジントラブルでリタイアしたが、ベルガーが2位に入った。
マンセルはエンジンブローでリタイア。パトレーゼは優勝した。

  • 第16戦 オーストラリアGP

セナがマンセルに追突。セナはは「マンセルのブレーキが速かった」といい、マンセルは「セナが故意にぶつけた」と言っていた。
ベルガーとパトレーゼは延々とトップ争いを続けていたが、パトレーゼはトラブルでリタイアし、ベルガーが優勝。ホンダ最後のレースを優勝で締めくくった。



マンセル、ウィリアムズFW14Bが圧倒的な強さだったという印象しかなかったが、非力だったマクラーレンでセナが必死に走っていたというのが思い出された。マンセルとのバトルが印象的だったモナコグランプリなど。
93年からは、マクラーレンの低迷、ナイジェル・マンセルの引退、アラン・プロストの復帰であまり見なくなっていった。